はじめに 私が誕生してから社会人になるまでの思い出を回顧します。

1,武藤家のルーツ
2,祖父武藤銀太郎と魚半
3,幼少時、戦時中の避難先の思い出
4,十一屋小学校の思い出
5,同窓会と遠距離恋愛
6,白山アルバイトの思い出
7,ラーテレビの開発・設計の思い出

あとがき









武藤氏(むとうし)は、日本の氏族の一つ。藤原氏の一族です(藤原北家)。
大化の改新の功労者である中臣鎌足(なかとみのかまたり)が死に際(669年)に天智天皇(中大兄皇子)から「大織冠」という、当時最上級の冠位と「藤原」の姓を賜り、
死後は「藤原鎌足(ふじわらのかまたり)」と呼ばれるようになりました。
このことから、藤原氏はルーツを辿ると例外なく藤原鎌足に行き着く流れということになります。

そして武藤氏は、武蔵に拠点を置いたため武蔵の藤原すなわち武藤氏と名乗ったとの説があります。
また、平安時代後期に藤原景頼の子の頼平が武者所に就いたことから武者所の藤原すなわち武藤氏と名乗ったとの説もあります。

        全国に広がる武家藤原氏の子孫たち。


祖父銀太郎は三重県松阪市出身であることから、武者所の藤原すなわち武藤氏であると思っています。



































祖父銀太郎は、明治7年4月7日に三重・松坂に生まれ、明治29年22歳の時に兄、兼次郎と共に名古屋・宮宿に料亭魚半を興し、明治 31年24歳のとき、名古屋の第九師団が金沢に進駐するとき御用商人として帯同し、軍の食事を賄い、後に金沢・魚半を興しました。最初に寄宿した旅館・白山屋で見初めた妻・雪との間に子供がなかった。
富田源次郎の長女静江は3歳のとき全国で流行したスペイン風邪のため、両親が他界し、不憫に思った銀太郎は、静江を養女とし、雪の13番目の弟十三男も養子となり結婚、静江との間に 5 人の子をもうけました。
昭和 3 年欧州 10 数か国を 3ヶ月旅行、さらに 昭和 10 年、氷川丸で渡り 3ヶ月アメリカを旅行しました。
その時海外で体験したハイカラ文化をもとに、エレベーターやネオンサイン、ベビーゴルフを金沢で初めて作りました。
十一屋小学校には給食室を寄贈、写真とお礼状が飾られていました。
宮宿の船着場に面した大きな建物には名古屋市教育委員会の案内板があり、次のように記載されています。
 
「木造・二階建・切妻造・桟瓦葺平入り・正面庇付でこの建物は明治 29年(1896年)武藤兼次郎が建てた「魚半」という料亭であった。近世の町屋の形式を継承しており、市の有形文化財に指定されている。名古屋市教育委員会」

銀太郎の従兄弟泰次郎は、岐阜の商工会議所に魚半食堂を興し、第二次大戦の空襲で焼けたが、料理長が暖簾を受け継ぎ、岐阜市初音町に魚半食堂を再興、現在も繁盛し続いています。

魚半の名前は江戸時代松坂藩で鮮魚を取り扱っていたお抱えの魚問屋「魚屋 半兵衛」が由来です。金沢大学附属病院移転の際、「魚半」の名前を印した皿が大量に出土しました。
創業明治30年(1897年)

その後、武藤十三男(むとう とみお)が店主の時、昭和4年に現在の香林坊アトリオがある場所へ移転しました。
当時としてはめずらしい、ビアガーデンやパットゴルフ場、エレベーター、ネオンサインなどがありました。
また、五木寛之原作で1970年のNHKのドラマ『朱鷺の墓』に「…下士及び兵士六千名分は魚半が一人当り二十銭で請負う事となった。…」との記述されています。
その後、香林坊地区の再開発により、昭和59年に現在の武家屋敷前の場所に移転をしました。
魚半ホームページ


2009年2月26日(木)洋友会(旧職場の親睦会)の歩こう会で旧東海道、桶狭間古戦場(有松宿)から宮宿まで約 15km を歩いてきました。前日の開催予定を雨天のためを今日に延期した甲斐があり大変良い天候となりました。
今日の大きな収穫は、私の家系のルーツをゴールの宮宿で発見したことです。
宮宿の船着場に面した大きな建物には名古屋市教育委員会の案内板があり、次のように記載されています。 
「木造・二階建・切妻造・桟瓦葺平入り・正面庇付でこの建物は明治29年(1896年)武藤兼次郎が建てた「魚半」という料亭であった。戦争中三菱重工業の社員寮にされ、現在は高齢者福祉施設として利用されている。建造時期は新しいが、近
世の町屋の形式を継承しており、旧船着場に面して建ち、宮の宿の景観をしのばせる数少ない遺構の一つで、市の有形文化財に指定されている。名古屋市教育委員会」

私の祖父、武藤銀太郎は兼次郎の弟で明治 30年、24歳で陸軍第 9師団が金沢に進駐したとき、御用商人として同行し、同時に金沢で料亭「魚半」を興したということを聞かされており、もともと私の家は名古屋の出身だと知っていたので、そのことを改めて確認でき感慨深いものがありました。
この宮宿は東海道七里の渡しの起点であり、同時に現在の我が家の近くを通る美濃路街道の終点(起点)でもあり、何か不思議な因縁を感じます。
すでに完踏した中山道やこれから完踏を目指す東海道、甲州街道、日光街道、奥州街道の日本の五街道をはじめ、各地の街道歩きに一層の励みとなりました。







祖父 武藤銀太郎




欧亜を巡りて 紀行本




























金沢 魚半










岐阜 魚半




現在の金沢 魚半







宮宿の旧魚半





























私は1941年4月24日、石川県金沢市で武藤十三男・静江の三男として産声を上げました。
戦時中に空襲から逃れるため金沢郊外の山中に疎開したそうですが、その時のことをかすかに覚えており時々夢に出てきます。














十一屋町の生家












子供のころは、電池と豆球で飾りの明かりを作ったり、鉱石ラジオを作ったり、電気関係の工作が大好きで将来は電気系のエンジニアになるのが夢でした。
小学校は十一屋小学校に行き、金石へ林間学校に行ったり、犀川で泳いだりして遊んでいました。
妻百合子とは5年6年の同級生でした。










鉱石ラジオ















































































詠百合子とは5年、6年同じクラスでした。小学校を卒業して8年目の20歳の時同窓会があり、そのとき詠百合子と再会しお互い意気投合し、金沢ー東京、金沢ー兵庫・北条の4年間の遠距離恋愛を経て結婚しました。
早いもので金婚式も済ませ、来年は60年ダイヤモンド婚です。






二人の写る卒業写真




蛇の目での同窓会







































高校1年生の時兄と二人で加賀・白山に初めて登山しました。素晴らしい景色にすっかりとりこになり、山のすばらしさに目覚め、翌年の夏休みから6年間
白山・室堂でアルバイトをしました。
                        白山・室堂のアルバイト時代  

皿洗いや室掃除、弁当作り、ボッカ(荷揚げ)、水汲み、焼き印、ごみ処理、毛布干し、道標建て、ガイドなど何でもやりました。
社会人になっても会社の登山クラブに参加したり、個人山行で北は北海道の大雪山、南は屋久島の宮之浦岳、北アルプス、南アルプス、中央アルプスなど日本中の山に登ってきました。

現在も毎年上高地・小梨平キャンプ場にはソロテントでソロキャンプを楽しんでいます。
今の健康で充実した人生のすべては、山のおかげだと思っています。
















































小さいときに鉱石ラジオなど作っていたので、将来は電気のエンジニアになりたいという夢を持っていました。
そして大学卒業後三洋電機に就職し、最初は兵庫県加西市北条の三洋電機発祥の地、回転記事事業部に配属され、4年後に当時ブームになりかけていたカラーテレビ事業部勤務となりました。
カラーテレビの開発・設計部署に配属され、以後カラーテレビの回路設計・部品設計一筋に打ち込みました。
昭和52年、カラーテレビ増産に伴い、岐阜・安八工場に技術者180名が転勤、そこでカラーテレビの大増産となりました。

カラーテレビの回路設計・部品設計において、多くの新規技術を発明・考案し特許、実用新案として出願し、権利確定しました。
実際に特許、実用新案がカラーテレビに採用され、販売されると実施褒賞という金一封がもらえ、海外旅行の費用に役立ちました。
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1,1ヶ月以上の長いひとり旅を終えて帰国してくると色々な新しい気付きに出会います。

2014年2月24日(月)から3月25日(月)まで1ヶ月、寒い日本から脱出し、暖かい南国で1ヶ月過ごし、東南アジア6ヶ国を一人旅で訪れてきました。
東南アジアは乾季のこの時期、雨は一滴も降らず毎日35度以上の乾燥した猛暑が続いています。一方雨季には毎日大量の雨が雨が続き洪水になるそうです。
大気は汚染し空気は汚く、水もまた汚くて飲めません。そして道路にはゴミが溢れ返り、野良犬が歩き回っています。貧しい人々はこのような劣悪な環境の中、物売り、物乞い、タクシーやトウクトウク、馬車のドライバーなどで必死に生きるため懸命に働いています。
特に私が滞在した1泊800円〜1400円の安宿の周辺には、汚い身なりで裸足で歩く子供たちも学校にも行かず懸命に働いている姿を見ました。
豪華なホテルに泊まるパッケージツアーでは絶対に近づかない危険地帯ですが、私は毎日このような貧しい人たちの実際の姿に接してきました。
それに引き換え、四季が規則正しく訪れる日本は、空気もきれい、水も飲める、ゴミは定期的に回収してくれる、そして何よりも豊かで平和で暮らしやすく、世界最高の国だと気づきました。それが今まで当たり前だと思っていた日本での生活が、東南アジアの人々にとっては天国のような生活なのです。
病気になって健康の有難さを知るように、東南アジアの貧しい人々の生活にじかに触れてみて、改めて日本の素晴らしさを再認識しました。

毎日の愛犬との散歩、庭や家庭菜園の手入れ、気持ちの良いジョギング、家族との何気ない会話など、普段の生活の中にこそ最高の幸せがあることを知りました。
普段のこの何気ない生活の中の最高の幸せ以外に、これ以上の何か特別の贅沢を求めることは東南アジアの貧しい人々に対し、申し訳が立ちません。
その思いをユニセフ協会などに寄付して、このような人たちの暮らしが少しでも楽になるよう、今後は自分自身の愚かさを戒めていきたいと本当に感じました。
使い残した現地通貨(ベトナムドン、カンボジアクエル、タイバーツ、ラオスキップ、ミャンマーチャット、マレーシアリンギッドなど)があったので、空港のドネステーションボックス(寄付箱)に寄付してきました。これで少しは、気持ちは晴れました。
ベトナム、カンボジア、タイ、ラオス、ミャンマー、マレーシアなど世界遺産に代表される観光地は素晴らしいところでしたが、一方で、このような貧しい人たちとの触れ合いで得られたこの思いをこれからも大切にして生きて行きたいと思います。

2016年9月21日(水)から10月21日(金)の1ヶ月間ひとり旅を続けてきてつくづく感じたことは、いかに日本が素晴らしい素敵な国かということでした。
旧ユーゴスラビアのモンテネグロやアルバニア、マケドニア、コソボなどはまだまだ国力の回復にはほど遠く人々は貧しい暮らしを余儀なくされています。
飼い犬を飼う余裕もなく犬たちは野犬となってうろうろしています。小さな子供たちや大人たちが道端に座って通る人たちに物乞いをしています。
何もすることがないのでしょう、大人たちは昼間から仕事もなく公園のベンチに集まってただごろごろしています。酒を飲んで暴れている人もいて町が雑然としています。
それに比べて日本は如何に恵まれているか、仕事さえ選ばなければ仕事にありつけ、働けないということもありません。豊かで平和で安全で美しい国土に恵まれている日本、こんな素晴らしい国は世界中どこにもないと思います。その中でクロアチアやスロベニアは素晴らしい国だと感じました。
観光資源が豊かなせいもあるのでしょう、人々の暮らしも余裕が見られます。日本人のパッケージツアーの人たちにも多く出会いました。
クロアチアのプリトヴィツエ国立公園(世界遺産)やアドリア海沿岸のスプリット、ドブロニクは旅をするにはおすすめの場所です。
ぜひクロアチアのプリトヴィツエマラソンを走りアドリア海沿岸を旅することをお勧めします。カタール航空ではドーハからクロアチアのザグレブに直行便が出ていますので格安の航空券も入手できるでしょう。 それよりも何よりも、日本の食事はなんとおいしいことでしょう。
寿司に天ぷら、刺身にビフテキ、とんかつ、ラーメンにうどん、そば…… 聞いただけでよだれが出てきます。
それに比べてヨーロッパの食事は固いパンの間にハムとチーズを入れたホットドッグなど仕方なく食べていました。レストランに入ってもビーフステーキかビーフシチュウ、スパゲッティなど勝手の知ったものしか注文できませんでした。結局日本から持って行ったサトーのライスとレトルトカレー、それに日清のどん兵衛うどん、鴨だしそば、餅を自炊して食べるのが節約にもなるし一番のごちそうでした。日本食レストランや中華料理店も探しましたがなかなか見つかりません。
第一出会う日本人はほとんどいなくてアラブ系、トルコ系などの人たちばかりですから日本食レストランもないかもしれません。苦労したのは食べることでしたが、日本食をたくさん持って行ったことで大変助かりました。

次に感じたのは平和に関することです。バルカン諸国はかつての旧ユーゴスラビア連邦から民族や宗教などにより長い紛争、戦争を経て独立し現在の国なっているわけですから、それぞれの国が自分の国を自分たち自身の力で守ろうとする意気込みにはすごいものを感じます。これまでの紛争や戦争でリーダーとなり大きな力となって国のために尽くした功労者の人々は、今でも銅像となって何百人、何千人と街角に立って平和の行方を見守っています。
また、街角には多くの兵士が銃を構えて立っており、テロリストや侵略犯に備えて国を防衛しています。
このように今の平和をいかに自分たちで維持していくかということを国民一人一人が真剣に考えています。 しかし、日本人はこれほど真剣に自分の国を自分たちの手で守ろうと考えているかどうか少し疑問に思います。日本は海に囲まれた島国で周囲から襲われることもなく戦後70年平和を享受しており、そのため豊かで安全で多少平和ボケしていると言われても仕方がないのでしょう。一方、現実の日本を真剣に考えてみると平和だとばかり言えなくなってきていると思います。
中国は尖閣諸島を狙ってきているし、沖縄も隙あらば自分の領土にしようと虎視眈々と狙っています。韓国は竹島を実効支配しているし、隠岐の島も狙っています。
北朝鮮は日本人を拉致し、ミサイル、核開発に没頭しています。このような厳しい国際情勢を一体どれくらいの日本人が分かっているのか私は知りたいのです。
憲法改正の真剣な論議を国民の中でもっともっとも展開していってほしいと思います。戦後米軍から押し付けられた現在の憲法は、第9条の規定で陸海空軍その他の戦力はこれを保持できないし、交戦権も行使することができません。日本は軍隊も持てないし、敵が攻めてきても攻撃できず領土を奪われる骨抜き、丸裸の状態です。
都知事選に立候補した鳥越氏は”一体どこの国が攻めてくると思っているのですか?”などととんちんかんなことを言って非難されましたが、中国、韓国、北朝鮮が攻めてくるのです。最近の世論調査で、朝日、日経・東京テレビの調査では、改憲反対派ないし現状維持派が国民の過半数を占め、NHK調査では改憲反対派が改憲賛成派を上回っている状態です。 私はこの現状を次のように考えています。すなわち憲法改正の考え方に関して5グループに分けて考えています。
1、憲法9条を改正し日本を防衛できる体制を確立するグループ。このグループの人たちは純粋な日本民族の人たちであり、戦後米軍から押し付けられた
軍隊も持てない、反撃もできない骨抜きの憲法”を自主憲法に改正し自分の国は自分で守るという人たち。
2、憲法改正に反対で現憲法を守るグループ。私は、この人たちは純粋な日本民族ではなく日本名を名乗ってはいるが韓国、中国、朝鮮民族の人たちであり領土を拡大し奪おうとしている祖国の利益のために日本の防衛力を強化する憲法改正に反対しているのであると思っています。社民党や民進党の福島瑞穂や辻元清美、菅直人、原口一博、蓮舫など帰化人であり、祖国のために声を大にして憲法改正に反対しているのです。 https://www35.atwiki.jp/kolia/pages/294.html
3、2のグループの人たちに強力に説得され、洗脳され、感化されて憲法改正に反対しているグループ。
4、日本民族として自分の考えで憲法改正に反対しているグループ。この人たちが反対する理由を知りたいものです。
5、政治には全く無関心で興味がなく、憲法改正にもまったく無関心なグループ。 戦後70年間日本が平和でやってこれたのは平和憲法があるからだと2のグループの人たちは言っていますが、日米安保条約によって米国が日本を守っているためであり、核の傘のおかげで平和でやってこれたのです。
もし日米安保条約がなければ韓国、中国、朝鮮は日本の領土を奪いに来ていたでしょう。彼らは日本に攻めても軍隊を持てない、反撃できないと知っているからです。
平和とは抑止力であると思っています。現政権は衆参両院で3分の2以上を占めいつでも憲法改正を発議できる状態ですが、決めるのは国民一人一人です。自分の国を守るため自衛軍を強化し、攻めてきてもいつでも反撃できる体制をとれる憲法にしようという国民的議論を活発にすべきだと思います。
今回のバルカン諸国の旅で自らの国を自分たちの力で守ることがいかに大切であるかを学びました。
長い間お付き合いありがとうございました。 また、日本でお会いしましょう。

2,素晴らしい日本を孫や曾孫など次の世代に引き継ぐこと

豊かで平和で暮らしやすく、美しい国日本、この素晴らしい日本を孫や曾孫など次の世代に引き継いでいかなければなりません。
そのためには、憲法9条を改正し、軍隊を持てる強い国、他国の侵犯に反撃できる強い国にしなければなりません。
もし憲法を改正せず丸裸なままの弱い日本であれば、中国は尖閣諸島や沖縄を武力で占領してくるでしょう。
ロシアは旧ロシア民族であると主張するアイヌ人を救うためと称して北海道を武力で占領してくるでしょう。

「武力による現状変更」「国際法を無視した領土の略奪」がまかり通る何でもありの世界になっています。
日本も現実をしっかり認識しなければなりません。
憲法9条を改正しなければならないという正しい認識を持つ国会議員を一人でも多く増やし、応援していきます。


3,讃美歌は素晴らしい

今回回顧録を編集している過程で改めて宣教師・英会話の先生であるランディと一緒に賛美した讃美歌の素晴らしさを再認識しました。
これからも讃美歌を聞きながら静かな時を過ごしていきたいと思います。

・312番 いつくしみ深き  
・320番 主よみもとに近づかん
・461番 主われを愛す
・465番 神ともにいまして
・493番 いつくしみ深い
・472番 人生の海の嵐

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思い出のひとり旅 ベスト10


思い出のひとり旅番外編


国際的友情を育んだ世界の美女たち


思い出の武藤ツアー その1


思い出の武藤ツアー その2


思い出の武藤ツアー その3


思い出の武藤ツアー その4


私の宝物10選





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